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I'm (w)here

第56回岸田國士戯曲賞を受賞したノゾエ征爾主宰の劇団はえぎわ。上演初日の5月17日ソワレ、下北沢ザ・スズナリにて。


「劇団はえぎわ」の名前は、10年前、東京にいたころから気にはなっていた。ただ、なかなかタイミングが合わないまま東京を離れて、10年経って、主宰が岸田賞を獲ったタイミングでようやく見ることができた。ちなみにスズナリも初めて。劇団もハコも初めてとなると、さすがに新鮮なこころもちで開演を待つ。


・・・見終わって、一番最初の印象は「第三舞台みたい」ってことだった。(1) 学生劇団っぽいうちわの空気、(2) 重たい事実を扱いながらも重たくしない空気、(3) 役者のフィジカルが前面に出て動かされる空気、(4) 役者がそれぞれキャラ立ちしていて固定ファンが色めく空気、(5) ケレン味たっぷりな演出と、それにともない兼ねない照れを周到に回避するプロットの空気・・・などなどが、わたしのなかではあの80年代の申し子劇団と重なって仕方ない。


舞台上の緊密に動き回る展開は、劇団員同士、すごく仲が良いんだろうなあと感じさせる。でも、それ以上にわたしがはっきりと違和感を持ったのは、客席の雰囲気だった。一見さんには理解不能なタイミングで突然客席が沸いたりしていたのだった。初見の観客にとって、あれはけっこう辛い。コアな観客に向けたファンサービスが舞台上に織りこまれていたのだろうと思う。その意味で、わたしがスズナリの客席でまわりのケタケタ笑い続ける客にイラッとしたのは筋違いだったにはちがいない。あのフライング笑いを誘っているのは役者側なのだ。


ただ、そういう固定客のフライング気味の反応は、しっかりと役者にキャラが確立されていて、個々の台本以外のサブテクストがちゃんと機能しているということだから、楽しみ方の窓口がいろいろあって、多面的な舞台になっていると言えば、そう言えなくもない。窓口が狭く小さなひとつだけの舞台よりも、ずっと良いかも知れない。・・・でも、あのフライング気味のコアな観客が、初見の観客に与える疎外感はリスクとしてふまえられているべきだろうとは、思う。


そしてこのリスクは、第三舞台がずっと負っていたものだった。このあいだの解散公演は、まさにこの全客席が総フライング気味の反応をしていたと聞く。それはさておき。


序盤の「鬼ごっこ」の場面も、ちょっとエチュードっぽいドタバタ劇だったし、キャラ立ちした役者も、筧さんぽい人がいたり、大高さんぽい人がいたり、小須田さんぽい人がいたり、長野さんぽい人がいたり、実にうまく棲み分けができている。また、途中で「群唱」っぽい場面があって、みんなでひとつのナンバを過剰にソウルフルに歌ってみたり、さらに最後のクライマックスで場面奥に立て込んだ壁がこちらに迫ってきて、役者全員でそれを押し返そうとふんばる演出は、まさに『天使は瞳を閉じて』を思い出させずにはおかない場面だった。これは鴻上尚史へのオマージュなのか。そういえば『Be Here Now』ってあったし、・・・『I'm (w)here』。


・・・今回の舞台は、ノゾエ氏が意識的に第三舞台に寄せた作品なのだとすれば、ふだんのはえぎわの舞台は、またちがう感じなのかも。ただ、オマージュであろうと意図せぬ類似であろうとにかかわらず、80年代と2010年代の舞台がまったく同じであるはずがない。以下、ちがうなと思った点。


はえぎわとノゾエ氏が作る舞台は、第三舞台と鴻上氏が作るそれよりも、さらに、デッドエンド感が強い。ぼろぼろに擦り切れていたとしても、ずっと遅延証明書を発行し続けるのだとしても、いまとはどこか別のところにアカルイミライがあるのだと信じさせる第三舞台と比べると、はえぎわはもう、いまのここしか、参照点は無いことを明確に打ち出す。筧さんや小須田さんが透明のやわらかい膜を押すとき、壁の向こうにはどれだけ残酷であっても未踏の未来が保存されていた。けれども、井内さんや竹口さんが押し返そうと踏ん張る壁の向こうには、希望も未来も存在せず、ただ茫漠たる幕裏の闇が広がるだけだ。その闇に、自分の居場所が奪われることに、力を合わせて必死になるみんな。


別の相違点は、物語内で育まれる闇がより濃いこと。今回は強烈ないじめの構造がひとつの物語の核となっている。スケープゴート性がどんどん伝播し、みんながみんな悲惨な運命に翻弄される一方で、最初からいじめられ役だったふたりはどこまでも徹底的に報われないという展開。その悲惨さ具合は、わたしにハイバイの舞台を思い出させるけど、ハイバイとちがうのは、はえぎわはその悲惨さをぱっと一瞬覆い隠すトッピングをより豊富に取りそろえている点だと思う。役者同士の紐帯や、そのフィジカル性は、とくに、ハイバイにはない(ハイバイが排除した)ものだと思う。このトッピングのラインナップがどこまでも80年代っぽい「古さ」を感じさせもするのだけれど、依然、方法論としては重たさを一瞬ずらして、深刻さを打ち消すことなく持ち越すことに有効なのだなあと感じ入ったことだった。


第三舞台とちがう3つ目の点は、各プロットの構成の仕方。鴻上氏は基本エンタテイナで、当時の水準からすると、かなりの飛躍や跳躍を含んだ台本を書いていたけど、すべての伏線がきちんと、ひとつに収斂するという点のみを取り出せば、やはりウェルメイドな物語を練り上げたのだと思う。それにたいしてノゾエ氏は、各プロットを並列でずらりと並べ、それを断片的に同時並行していき、時折別々のふたつのプロットが交差することはあっても、それは偶発的な印象を与えるものだった。つまり、特権的な位置にまします神の視点と手腕が、舞台上のすみずみにまで行き渡っているようには思えない舞台となっている。このすきま風が吹きすさぶような風通しのよい本は、その特権的な位置にいる観客のひとりひとりの漠とした居心地の悪さをもたらす。もちろん、コアなはえぎわフリークの観客は、別の窓口からこの居心地悪さ感を中和することができるのだけれど、いずれにしても、この居心地悪さ感は21世紀の演劇なのだなという印象を与えるのに成功している。


この80年代的な要素と2010年代的要素を混ぜっ返した感じが、はえぎわのおもしろいところかなと思う。・・・そう、劇の序盤の群唱に選ばれたナンバとは、レディオヘッドの《creep》。この92年のナイーブな曲調のヒットナンバには、たぶん、わたしと同年代の人にはグサッと刺さる、青春のアンセム的な響きがある。・・・と思っていたら、ノゾエ氏はわたしとまったく同い年だった。なるほど。そして、観客席でフライング気味でケタケタとわらっていた女性たちを見てると、やっぱり自分と同じ年齢層っぽい。


いま、第三舞台の作品をそのままのカタチで再演すると、あまりにもセンチメントが濃厚に甘くなりすぎて辛いけど、はえぎわの作品はムカシとイマを分離させたまま舞台上に持っていき、分裂したままかけずり回っていく。このくらい甘さが中和されると、センチメントに浸るエクスキューズを持つことができる。自分のなかの照れをちょっとのあいだ凍結するだけの冷たいすきま風にさらされることができたのが、劇団はえぎわの『I'm (w)here』という舞台だったのだろうと思った。


・・・それはまさに、レディオヘッドというバンドにおける《creep》というナンバの立ち位置だ。

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