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ファッツァー


三浦基主宰・地点のお芝居。2013年11月21日ソワレ@アンダースロー。


ベルトルト・ブレヒトの脚本で、ハイナ・ミュラーも絶賛しているものの、いまだ邦訳がない。というわけで、おそらくこの国では初演だろう。地点は古典を上演すると抜群に良いというのはいままでも何度か書いてきた。なので、今回のブレヒトもおもしろいだろうと期待値を上げつつ、白川今出川から地下に降りた。


物語、・・・はあまりアタマに入ってこなかった。もちろん、地点一流のセリフ回しは相変わらずなので、あらゆるセリフが細切れに断片化されていることが大きい。そもそも、地点の舞台は物語を理解することは観客にとって第一義の目標ではない。そうではなく意味と音のはざまで、声が声として自律的に躍動する瞬間を見る(いや「聴く」)ことが目標となる。


となれば、物語がアタマに入ってこなくとも、それほど大きな障害となるわけではない。・・・はずだったが、どうやらそれほどコトは単純ではなかった。声が声として、自律的にはじける瞬間を、わたしは捕まえきれなかった。その理由は、何だろうかと考える。たぶん、可能性はふたつあった。


ひとつはブレヒトの脚本自体の問題。これまで地点の舞台は駒場時代からいくつか見てきたが、おもしろかったのは大体シェークスピアやチェーホフなど重厚長大な作風の古典だった。三浦の縦横無尽にセリフを切り刻んで縫い合わせる演出は、比重の大きなテクストであればこそ、映える。


けれども、このテクストの比重が小さくなると、どうしても地点のセリフ術は上滑りしていく。古典テクストが持つ抵抗に依拠するという意味では、メディウム・スペシフィックを地で行くのが地点なのだ。声がはじけるのは音と意味のあいだ、つまり確固たる意味の重みがあることが大前提となる。


さて。それをふまえて『ファッツァー』はどうだったかというと、ブレヒトのレパートリィのなかで、どのくらい比重の大きな作品なのかわたしにはわからない。わからないけれど、もしかしたら『セツァンの善人』や『ガリレイの生涯』ような重みには欠ける脚本だったのかも知れない。これがひとつめの可能性。


もうひとつの可能性は、三浦が今回の演出で大々的に用いた「効果音」だ。まるで機銃掃射を示すかのようにドラムの轟音が鳴り響く。これが上演の流れを断ち切るように観客を脅かす。セリフが断絶されているうえ、演技もこの轟音で断絶される。観客は、ばらばらになったセリフを取り結ぶことに加えて、さらに演技自体を取り結んで解釈することを強いられる。これはなかなかのストレスになる。


べつに、ストレスが悪いというわけではない。抵抗は豊かさへと続く扉にもなる。それでも、わたしにはこの「効果音」による断絶を、どうしてもうまく受け入れることができなかった。単純にわたしの受容力が弱っているのかもしれない。「より良い観客」には、きちんとこの舞台を楽しめたのかもしれない。ただわたしは、ドラムの轟音を全部オフにして、セリフをじっくり聴いてみたかったと思ったということだ。


役者はあいかわらずすばらしい。かつては安部聡子の超絶技巧のみが際立っていたけど、いまでは他の役者の技術もすばらしく、声帯を楽器のように無機質な道具として使い回す演者に圧倒される。これは唐十郎の「特権的な身体」とはまったく別の位相の話。安直なヒューマニズムに堕することのない地点の身体は見応えがある。


地点は『ファッツァー』を今後も再演していくレパートリィに据えている。もう一度、どこかでこの舞台を見てみようと思う。もしかしたら、コンディション次第では、二重の断絶を楽しめるのかもしれないから。


ダコーザ・ナッシェ・コーザ。

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