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十九歳のジェイコブ


中上健次原作・松井周脚本・松本雄吉演出『十九歳のジェイコブ』@新国立劇場小劇場。6月18日マチネ観劇。


中上の同名原作小説は未読。でも、いかにも中上だなあというコッテリしたストーリィ。ドラッグ・セックス・ジャズに三方向を閉ざされ、残る一方も「父」にさえぎられ、八方ふさがりの状況でどうやって生きるのか(死ぬのか)という物語。4つの壁で完全なるデッドエンドが成立するという、ある意味でシンプルかつ幸せな時代だったのだ、1960年代は。現代では、そううまくはいかないだろう。壁という壁がことごとく倒れてしまって、わざわざその壁をよいしょと立て直してわざわざそれにぶつからなくちゃいけないとってもめんどくさい時代なのか。いや、もちろん、立て直さなくてもいいのだけれど、そうすると、どこまでも生きていかないといけない(死んでいかないといけない)ことになって、いっそう大変。


・・・という2010年代に、1960年代というまったく異質な価値観に串刺されている作品を上演する意義はなにか。


脚本の松井氏も演出の松本氏も、原作の完全なる再現を目指しているわけではなさそう。かといって、完全に2010年代仕様に翻案するつもりもなかったよう。そのことから、ふたつの異なる時代の橋渡しをしたいというのが制作の大きな動機であることがうかがえる。


たとえば松井氏のセリフにはメタ的な自分へのツッコミがそこかしこに登場する。それは、1980年代のたとえば岡崎京子作品などに顕在化した自意識だろう。そういう「照れ」のようなものは、中上の重厚な悲劇といかにも食い合わせが悪く、もちろんその異物感も狙ったものだとは思うのだけれど、結果、物語を流れとして流すことができず、都度、観客は踏みとどまることを強いられていく。もちろん、それは悪いことばかりではないだろう。中上の悲劇をきちんと咀嚼する契機だと思えば、なんとなく上演上の整合性はとれていなくもない。


また、松本氏の演出も、いつもの維新派的夢幻感はなりを潜め、最近のプロデュース公演でしばしば見せるまっとうなセリフ劇をしっかりやろうとしているのがわかるし、しっかりできているのだと思う。ドラッグでトリップする演技にせよ、セックスの動物っぽい身ぶりにせよ、身体ががっちり訓練された役者を数名センタに立てた甲斐あって、うわついた感もあまりなくギュッと凝縮されていて、なんとなく「古風な生っぽさ」が醸し出されている。けれども、やっぱり松本氏なので、いわゆる土方や大野の向こうを張った舞踏家なので、そこはそれ彼一流のプラステイッキィな彫塑感がずーっと開演から閉演まで引き延ばされている。内側からの自然な力感というより、外側からの人工の作動という感じがある。とくに杉山氏の舞台美術プランとあいまって、引いた絵がいつも「きれい」なのが良くも悪くも致命的。


そんなふうに古さと新しさが混ざらずにボテッと盛りつけられた感のある舞台だった。ただ、原作上、どうしても「父殺し」は「父殺し」として描き出さないことには終われない作品でもある。そして「父殺し」だけは、なかなか古さを新しさで折りたたんでまとめることが難しい。いわゆる無時間性みたいなものの根源なのだから。本当は、ドラッグ・セックス・ジャズの3つの壁で、この最後の分厚い壁を支えなければいけなかったのだろうけれど、ドラッグもセックスも、構造的に強度が不足していたことは否めない。それは脚本と演出のどちらにも責任があると思った。ジェイコブ役の石田卓也氏はほんとうに快演で、すごいなと思ったけれど、隔絶した時代の空白をその身体だけで支えるなんてことは、はなから難しい。トリップや乱交の場面も堂に入ってたし、新国立であれをやったのはすごいと思うけど、「すごい」と感じてしまっている時点でわたしはもう、その橋がかりから落ちてしまっているのだろう。


現代からかけ離れた作品を上演するときは、徹頭徹尾、ストレートプレイに徹して、現代的な意義みたいなものを完全無視するか、それとも脚本と演出を完全に破壊し尽くしてミキサにかけてゼロベースでくみ上げることで現代的な意義を一瞬偽るかのどっちかしかないのかもしれない。20世紀初頭のチェーホフを後者の方法論で上演し続ける地点の芝居を観てしまうと、こういうどっちつかずのふわふわした感じがスリリングでありつつも消化不良を起こしてしまうわたしだった。


・・・ところが、主人公を追い込む4つの壁のうちの最後のひとつ、ジャズについて考えると、この舞台はじつにおもしろかった。音楽の監修は菊地成孔。物語上メインの舞台となるジャズ喫茶の場面では、フリージャズのナンバが大音量(ふつうの演劇の上演では考えられないくらいのボリューム)で流された。それが、わたしが本当にツボにはまった。めちゃくちゃ面白かった。ふだん、コルトレーンとかはなんとか聴けても、ほかのはなかなかがっつり1人で向かい合うのは骨が折れるフリージャズだけれど、それこそ上演中、アイラーとかがガンっと音の壁として屹立したときの感動ときたらなかったのだった。たぶん、1960年代の雰囲気が脚本と演出でふんわり醸し出されていることで、「ガチの」60年代の音楽を召喚する場が整っていたということなのだと思う。『十九歳のジェイコブ』、じつはわたしは劇場を出たときにとっても満足していたのだけれど、振り返ってみると、このアイラーへの感動がそのほとんどを占めていたことに気付いたのだった。さすが、なるぽん。うまい。うまいなあと思う。フリージャズの荒れ狂う音の波を2010年代の観客にきちんと届けてきた。松井氏も松本氏も、中上でさえ、今回はなるぽんに奉仕していたのではないかと思う。そう考えると、わたしは、この舞台が成功していたといっても良い気がする。


それにしても、幸せな時代だと思う。いまを哀れむつもりはないけれど、いちいち壁が分厚く、蹉跌さえも香気ただよう。ただこれを、もっとゴリゴリに微分し尽くすような挑発的な演出で見てみたかった気もする。京都・北白川の地下でラネーフスカヤがあたらしいシルエットとともに立ち上がったような感じのやつを。


ダコーザ・ナッシェ・コーザ。

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