五反田の夜
- 2014年7月23日 23:59
- 五反田団
五反田団「五反田の夜」、7月23日@アトリエヘリコプターにて観劇。
ストーリィは、東日本大震災後の東京。寄付金を集めるためにボランティアクラブを結成する人たち。そのクラブのなかでいろいろミクロな権力争いがコミカルに展開して、クーデターや保守派の反攻があったりしつつ、すっとこどっこいな恋愛がひとつ成就するのか。・・・的なゆるいプロットに、ゆるい演出。そしてそのゆるさの精度が比類無い。見ている側が、興奮に追い立てられることも、倦怠に落ち込むこともなく、なのに目が離せない。
劇団主宰の前田氏が書く言葉は、いまだにあたらしく、つねにフックが利く。でもこの舞台でわたしがずっと惹きつけられたのは役者の身体だった。ボランティアクラブの面々がつまらないプライドに固執しつつもそれをひた隠しにつばぜり合いをする際の言葉は、すごく愉快なのだけれど、でもその言葉を支える身体のボテッとした感じがじつにおもしろい。ただの弛緩した身体の「ように」見える。この「ように」が、ツボなのだと思う。
たとえば、とっくみあいのじゃれ合いで痙攣する指先とか、自分への揶揄を受けて緊張する背筋とか、そういうミクロな子どもっぽい徴候をかいま見せるという技巧。それは青年団風の些細なディテールまでコントロールするベクトルで、偽装された「日常性」というくくりでは共通なのだ。けれども、平田氏の考える「日常性」と前田氏の考える「日常性」は同質でもおおきな隔たりがある。
それは、社会のまえに馴致された個人の身体と、馴致しきれていない個人の身体という差だと思う。ただ、どちらにしても、照射されるのは社会となる。あんなにくだらない日々の見栄や打算や妥協の場面を、ぐだぐだなキャラクタで再現しているにもかかわらず、見終わったあとのアタマにしっとりとした質感が残るのはつまりはそういうことなのだと思う。そういえば、わたしが初見時の五反田団に感じた衝撃も、とっくみあいする子供役同士のケンカだった。
それにしても、ひさしぶりに後藤飛鳥さんを見た。わたしは五反田団の傑作舞台『いやむしろわすれて草』を、いまをときめく満島ひかりバージョンで見たことがある(@青山円形)。満島さんはたしかに、世評通り卓越した演技力を持っていた。何かしらの分厚さを持っていて、その量感(身体のボリュームではない)でセリフを支えるところは迫力さえ感じた。でも、このバージョンよりもまえに、わたしは同じ役を後藤さんが演じたバージョンを見ていたのだ。
そして、その純正五反田団バージョンの『いやむしろ忘れて草』(@京都芸術文化センタ)は、これまでわたしが見た舞台のなかでも3本の指に入るくらい、すばらしい作品だった。それはひとえに、ラストシーンの鬼気迫る後藤さんの演技のゆえだった。五反田団の団員である彼女だけど、最近はあまり五反田団の舞台に上がらなかったので寂しかった。でも、ひさしぶりにそのたたずまいを見られて、じつはそれだけでわたしは満足だったりした。この日も、つまらない意地と見栄で背筋を支えるという身ぶりはすばらしく、いい女優さんだなあとあらためて思ったことだった。
ダコーザ・ナッシェ・コーザ。
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