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コリオレイナス


地点『コリオレイナス』@あうるすぽっと、初日の8月28日観劇。


シェイクスピアの戯曲のなかでもとりわけしぶい作品。けれども、古典はやっぱりプロットが力強く、三浦基のセリフ回しとの相性は良いだろうと想像はつく。じつは地点の『コリオレイナス』は、2012年の4月に京都芸術センターで公開稽古を見たことがある。ロンドン・グローブ座での初演をにらんだ状態で、まだぜんぜん脚本も演出プランも固まってない感じだったので、その後どんな仕上がりになっていたのか、まったくわからなかった。期待7割・不安3割な心境で開演を迎えた。


結果、なかなか味わい深くて良かった。喜劇と悲劇がないまぜになる感じが印象的。地点の代名詞でもある特徴的なセリフ術はなかなか効果的で、福田恆存訳の堅い言葉がびしびしと客席に届く。コリオレイナス役の石田さん、コロスの安部聡子さんと小林洋平さんの節回しはとくに良い。終盤、母親役になった安部さんが息子のコリオレイナスを説得する場面は、ふつうに胸に迫ってグッとくる。


この劇団の代表的なレパートリィであるチェーホフなどで見せたセリフ術と比べつつ、さらに『コリオレイナス』の作品中のセリフ術をふまえていくと、なんとなくぼんやりと三浦基のセリフにかんする方法論が浮かび上がる。最初は場当たり的でふわふわしたセリフ回しのように聞こえていたのに、だんだん確固たるスタイルが見えてくる。この地点スタイルが理解できてくると、安心して物語を楽しむことができる。ただ、一方でこの安心にたどりついてしまうと、アヴァンギャルドな表現の強度が目減りしてしまうのも否めない。


・・・終演後はこのへんのことを、ずっと考えてしまった。じつはそれは、セリフの方法だけでなく、身ぶりの方法について引っかかってしまったことがあったからだった。セリフについては地点スタイルがしっかり見えてきたのにたいして、身ぶりについてはそれがついぞ把握できなかった。地点のホームグラウンドである北白川のアンダースローはこじんまりとした小劇場。演技スペースはそれほど大きくない。そこで、演者たちは大きく動いたりするどころか、みっちり窒素に拘束されたように硬直した身体を見せつつ、あの蠱惑的なセリフを聞かせる。


ようするにわたしは、身体については、使うのではなく、使わないことに、地点のアイデンティティがあると思っていたのだった。もしくは身体を客席にたいして平面的に並べて、琳派の構図のように凝固させるそのレイアウトに。それが、このあうるすぽっとの舞台では、それなりに広いスペースを演者は前後に走りまわり、パースペクティヴを活かした演出プランが施されていた。これまでわたしが見た地点の舞台は、外部の参照点にはならず、目の前の『コリオレイナス』のなかに何かしらの共通項を見出そうとしたのだけれど、ムリだった。


・・・つまり、演者の身体の使い方が、ぜんぶ場当たり的に見えてしまったのだった。いわゆる新劇的な動きでも、青年団風の動きでもない、アヴァンギャルドな動きではあって、その都度、視覚はそこにリベット止めされてしまうような印象的なものではあるのだけれど、それが方法として把握できないことには、なかなかその動きが動き以上のものとして認識できない。それがモダニズムと言われてしまえばそれまでなのだけれど、個人的に、やっぱりわたしは、できるかぎり世俗的なスタンダードから距離を置いた空中庭園を築きつつも、世俗的な地平から見上げる観客にもたどり着けるだけの細いロープを垂らせるかどうかが、勝負どころじゃないかなと思う、・・・のだけれど。


というわけで、あうるすぽっとというハコはなかなか舞台が見やすい良いハコで、『コリオレイナス』の台本もなかなか良くて、セリフ術もあいかわらずの冴えを見せていたけれど、演者の身体の動きがわたしにはずっと良くない違和感の供給源となってしまって、辛いところがあったのだった。これだったらむしろ、世俗的なスタンダードにのっとった身ぶりをつけておいたほうが良かったのではないかしらん。先鋭的なセリフと世俗的な身ぶりが、それぞれ照応するように参照項となってくれれば、鑑賞する足がかりが都度生成されたように思うのだけれど。


あ、そうそう、あと、衣装はちょっとわたし的にはイマイチだった。浅薄なオリエンタリズムへの迎合を感じさせて。これはちょっと、あまりフォローできないくらい、じつは苦手なところ。音楽は良かったと思う。ライブで演奏をつけるというのは、やっぱり素敵だ。ミュージシャンが舞台奥中央に地べたに座って姿が見えるのも、すごく効果的。祝祭っぽい煩雑な空気を作るのに一役買っていた。主役固定であとをコロスで回すのもばっちりだと思う。・・・ただ、どうしてもあの衣装は、気持ち悪かった。これをロンドンに持っていったと聞くと、いっそう。オリエンタリズムの浮薄さって、彼の国のヒトがいかに評価しようとあがなえるものではない。セリフ術にここまで透徹したモダニズムを刻みつけておいて、そのモダニズムとの食い合わせがひどく気持ちが悪い衣装にするのは、まったく理解できなかった、・・・ということだけは強く言いたい。


・・・とまあ、いろいろケチをつけたところで、それは全部無いものねだりかも知れない。基本、安部さんがセリフをしゃべってくれるだけで、わたしにとってはじゅうぶんチケットの料金の元は取れるわけだし。それに、身ぶりが多少邪魔しても、セリフだけでもこの作品はちゃんと喜劇だったし、しっかり悲劇だった。天才軍人コリオレイナスの悲哀が胸に迫って、愚鈍なローマ市民に翻弄されるその運命は感動的でさえあった。これだけいろんな要素にバラバラな感想を持たされること自体、地点の舞台のスペックがきわめて高いことの証左となっているのは、まちがいない。


批評文や感想文を書くその手の輩に挑戦してくる作風だけに、こういう文章を書くのもなかなか怖いのだけれど、とりあえず雑司ヶ谷のお墓を抜けながら、帰途に思ったのはこういう内容だった。


ダコーザ・ナッシェ・コーザ。

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